心の探求

感情なき成功は本当に完成なのか?|「理想の人生」と「幸せな人生」について考える

tomoe


はじめに



前回の記事では、「感情凍結」が起こる仕組みについて取り上げました。


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今回は「感情凍結したまま生涯を終えた人」に焦点を当て、このテーマがわたしたちとってどんな意味をもたらすのかについて探っていきたいと思います。


「感情凍結」とは、人間を知る上で避けては通れない、大変興味深い現象だと感じます。


このテーマに強く惹かれたのは、感情凍結が一部の人だけのものではなく、実は多くの人が無意識のうちに経験しているものだと気づいたからです。


感情凍結は、決して特殊な状態ではありません。


むしろ、人間としてこの世に生まれてきた私たちにとって、ある種の“宿命”のようなものだとすら思えます。


前回は、感情凍結の先に現れる分かれ道として、「合理性依存」 「調和型依存」について触れました。



どちらも、自分の主観や感情を置き去りにしたまま合理的でスマートに振る舞うことや、他者のために尽くすことによって「人々にとってのメリット」という形で、自分の存在価値を保とうとする在り方です。


感情を凍らせたままでその道を極めていくと、やがて人は、感情の欠如を外側からの「称賛」で埋め合わせ、自分を保とうとするようになります。


そして、さらに評価を求めて突き進んでいくのです。


「凍ったままの感情」で、社会的な頂点に上り詰める人も存在します。


その人たちは、どこかで孤独を感じながらも、社会的には “成功者” として讃えられることになります。


だからこそ、自分の心の奥に ”切なさ” や “悲しさ” を持ちながらも、その内面を見せることなく、その地位や理想像を崩すことのないまま生き抜くことがあるのです。



ここで問題となるのは、そうした姿が「美徳」「理想の生き方」として社会に残ってしまうことです。


結果として、次の世代が無意識に「感情凍結された人生」を目指してしまうことが起きてしまう。


この見えにくい連鎖こそ、いま見つめ直すべきではないでしょうか。


そして、ここで必要とされるのは、「賞賛されるから」、「社会的にいいとされるから」、”いい”ではなく、
”その本質は一体何なのか”に目を向け、自分の頭で考え、本当に自分にとって重要かどうかを、見極める力だと思います。



「いい」とされるから受け入れるのではなく、”自分はどう感じるか” というフィルターを通してから、受け入れるかどうかを決める。

この一呼吸が、とても大切なのではないでしょうか。




この記事ではまず、理想化されてきた人物像の「尊敬される姿」に目を向けながら、鬱にもならず社会的に大きな失敗もせずに人生を終え、”完成系”とされてきた人々の奥にある「本質」にも焦点を当ててみたいと思います。



これからを生きるわたしたちはどこへ向かって歩んでいくのか。


その道を、一緒に感じ、考えるきっかけとなりましたら幸いです。



こんな人におすすめ

感情を抑えて頑張ることが、いつの間にか当たり前になっている人

理想の自分を追いかけるほど、なぜか疲れてしまう人

・幸せってなんだろう?とふと立ち止まることがある人

自分の人生に、もっと”感情”や”温度”を取り戻したい人

成功してるはずなのに、どこか虚しさを感じる人



感情凍結のまま人生を終えるとは


凍ったままの感情に気づかないまま、人生の幕がそっと閉じていく。
そんな人が存在します。


「本当の自分の感情」を生きる機会を、どこかで見送りながらも、それでも懸命に生き抜いた人たちです。


もしかするとそれは、その人にとっての「一番穏やかで、安全な生き方」だったのかもしれません。




静かなる完成の形

感情をほとんど表に出すことなく、
淡々と「正しいこと」「合理的な選択」を重ねながら、誰かに迷惑をかけることもなく、善良で、有能で、評価されてながら、ときに「立派な人」として、人生を終える人がいます。



鬱にもならず、苦しみを表すこともなく、
その姿は一見、問題のない、”完成された人生” のように見えるかもしれません。



けれど、その奥には、「生ききれてない感覚」や「生きた実感が乏しい」といった思いが、心のどこかに横たわっていることもあるのです。




感情凍結は、個人の問題ではなく “社会現象”


こうした感情凍結状態は、決して一部の人に限った話ではありません。


前回、感情凍結が起こる仕組みについて触れましたが、そこから見えてきたのは、
感情凍結は、程度の差こそあれ、誰の中にも起きている可能性があるということです。


つまりこれは、家庭環境個人の感受性だけの問題でなく、もはや『現代を生きるわたしたち全体』が抱える社会的な現象なのかもしれません。


むしろ、感情凍結を起こしていない人の方が、少数派なのではないでしょうか。



誰もが知らない内にかかっている『現代病』のようなものであり、多くの人が感情凍結を起こしていることにさえ気づけない。


なぜなら、”みんなそうだから”



それが、気づきを遠ざける、最も静かで強力な麻酔となっているのです。



そんな見えにくく、無自覚に広がる社会現象について、
この章ではその背景をいくつか例として挙げながら、目に見える形にしていきたいと思います。




感情凍結が社会現象である理由


感情凍結が社会現象である理由4つ





学校や職場では「空気を読む」「感情を抑える」ことが “美徳” とされる空気があります。



「泣くな」「怒るな」「取り乱すな」…



そうした言葉に象徴されるように、”大人として正しい” とされる教育や価値観の中で、感情はまるで “処理すべきノイズ” のような扱いになってしまっているのかもしれません。



その結果、感情を抑えること=社会に適応する術 として自然と身につけてしまっているのではないでしょうか。




感情は「非論理的」「時間がかかる」「扱いにくい」と思われがちです。

会社でも学校でも「感情より結果」が重視される場面が多く、ロボットのように働くことが“有能”とされる見方があることは否定できないと思います。



そうした中で、感情を職場や社会に持ち込まないのが「プロ」という感覚が、多くの人の中の「当たり前」として刷り込まれているのではないでしょうか。




「映える」「わかりやすい感情(喜び・感動)」が取り上げやすい一方で、他の感情(怒り嫉妬虚しさなど)は避けられがちです。

誰の目にも入り得る環境で公表するネガティブな感情は、「迷惑」「承認欲求」と捉らえられやすく、表に出すことは少々難しいように思います。


「いいね👍」など、いかに共感や応援を得られるかが可視化される世界では、”いいところだけ出す”、というのは、自然な動きではないでしょうか。


それに加え、ポジティブでない感情は批判の的になる懸念もあり、
一見、表現の自由があるようで実は感情の自由は失われがちであることに気づくことが大切だと考えられます。




戦争や貧困、激動の時代を生きた人たちにとって、「感情よりも生き延びること」が最優先だったのは当然のことだったと思います。


そうした生き方が “強さ” や “立派であること” として称えられ、時代が変わった今もなお、ロールモデルとして受け継がれている場面が少なくないように感じます。


つまり、かつての ”感情を凍らせてでも耐える姿勢” が、「立派な人」の象徴として、美化され続けてきたのかもしれません。



そしてその価値観が今もなお、模倣されているのではないでしょうか。





このように、感情凍結はもはや「個人の課題」ではなく、わたしたち誰もが無自覚に巻き込まれている “社会的な現象” であることが見えてきました。

そしてこの現象は、実は「成功」と呼ばれるポジションにいる人たちの中にも、根づいていることがあるのです。






感情を封じたまま辿りつく場所


感情を閉じたまま、活躍されてきた方々は、きっとたくさんいらっしゃると思います。


特に前の世代の方々に対しては、たくさんの尊敬と感謝の気持ちがあります。


過酷な環境の中、時に感情を抑えてでも道を切り拓いてくださったことに、深いリスペクトを感じるからです。



ただ、その偉大さに憧れるあまり、

わたしたち次の世代が、「感情を抑えることが、成功への近道なんだ」と思い込んでしまったとしたらーー


そこには、立ち止まって考えてみる余地があるかもしれません。



なぜなら、本当の幸せとは、「本質で生きること」、そして「自分であること」にこそあると思うからです。


この章は、決して、誰かを批判したいという気持ちではなく、
むしろその逆で、先人たちの努力や選択に敬意を持ちながら、
今を生きるわたしたちが少しでも、本質に目を向けるきっかけになればという思いで、綴ります。





感情を閉じたまま生きた人たちの5つのパターン


ここでは、感情凍結を経験しながらも、そのまま生涯を終えたと考えられる5つのパターンを紹介していきます。

国、上司、組織の「理想」や「使命」に献身する精神の持ち主。


忠誠心と責任感を胸に、感情を出すことは「甘え」や「弱さ」として認識し、「感情を切り離してでも職務を果たす」ことも。


それが「最善」で「誠実」だと信じて生きた方。


しかし、内面が置き去りにされていることにフォーカスしないまま一生を終えることも。


“模範的” でありながらも、どこか「生きた心」とは離れている一面が伺えるのかもしれない。



常にクールで、我慢強く、”男らしさ” や “強さ” を体現する人。


「感情を見せない姿勢」が美徳とされ、称賛されるほどに、さらに感情を封じ込めていくことも。


義理と人情を重んじ、言葉にしない優しさを持つ。


しかし、心の奥にしまい込まれた思いは、誰にも気づかれぬまま、一人きりの深さの中に沈んでいることも。




常に目標達成・競争・合理性が最優先。


目的に向かって突き進むことで、自分の価値を証明しようとするタイプ。


感情表現は無駄・非効率とみなすこともあり、自己感覚を置き去りにしがち。


”成功してもどこか満たされない”、そんなときでも次の目標達成に目を向け、「なぜか虚しい」「人生って何だったんだろう」という疑問は抱かずに走り続ける人。


その奥には、成功することで満たそうとする承認欲求がある可能性も。




常に周囲を優先し、自分の願いや願望は押しころすことも。


家族や社会の期待に応え、「良妻賢母」と呼ばれるような存在。


「こうあるべき」を疑わず、いつしか自分の感情の声が本人に届かなくなってしまうことも


最期まで “立派な人” として敬われながらも、「わたし自身は何を望んでいたのか?」という問いは開かれない。


自己犠牲役割同一化未処理の感情を抑えることが賢明で、やさしさであるという価値観の基、生を全うする人。





いつも凛とした佇まいで、感情の揺れを感じさせない。

清廉潔白で神秘的。

一貫した「ぶれない人」という人物像で、人々に敬愛される。


けれどその奥には、感情を抑圧した歴史があることも。


本音を語らないまま、最後まで「偶像」のような存在であり続けた人。


無私や清潔感とともに、心の奥底には感情が封印されたような、そんな静けさを感じさせる人でもある。





これらの在り方そのものに善悪はありません。

しかし、ここで大切なのは、それが心を携えたまま、起こったこと(happen)なのか、それとも、自己から離れ、”何かを演じること” で守り抜いたものだったのか、

そこには、大きな違いがあるように感じられます。







凍ったままの美しさ


これらの在り方は一種の「防衛」でもあり、同時に「美しさ」であったように思います。



一人の人間としては、感情を凍らせたことで社会的には尊敬され、その姿は多くの人に感動を与え、生き方そのものが「美学」として映りました。



でも、そこに “防衛” があったとき、その美しさの裏側で、どれほど本音を飲み、自分を我慢したのか――


そこには、大きな静けさと、悲しみ、そして切実な人間性がうかがえます。



感情よりも、義理、人情、信念、美学といった構造的価値観を大切にしていた。



感じるより “どうあるべきか” を演じる。



そこには、合理性道徳性に対する深い信頼があったのではないでしょうか。


しかし、これらの姿勢は「他人の評価を得る」ためではなく、自分自身の信念の支えとして、自己を敬おうとする在り方に近いのかもしれません。



「感情を閉じた代わりに、規律や美学に頼った自律のかたち」とも言えるでしょう。



心の奥底の虚しさには触れることなく、またはそれを通り過ぎることが、”乗り越えること” とされ、「美徳」となる価値観の世界。



そんな中で、幸せそうに見える人がいたら、何の疑問も持たず、
私たちはそれを“理想”として追いかけてしまうのかもしれません。



でも、もしその人が
”何か” に気づかないまま、”何か” を感じないまま人生を終えていたとしたら――



それは「夢」ではなく、「凍ったままの美しさ」と言えるのではないでしょうか。







凍った成功者に憧れる人々


問題なのは、「凍った美しさ」や「感情を封じた成功」に、憧れを抱く人がいるということです。



たとえば、



そんなふうに思う人が少なくないのには、
実は「感情を感じるのが怖い」という背景があるのではないでしょうか。



”感情を凍結したまま生き抜いた誰か” が社会的に賞賛されていたからこそ、

「それでいいんだ」「感じなくていいんだ」と、安心材料にしてしまう。


言い方が難しいのですが、わかりやすい言葉を使ってしまうのなら、
本当はそれは「抜け殻としての成功」である可能性もあるのかもしれない、


そんな視点を持って、世界を眺めてみることも大切なのではないでしょうか。




また、こんなケースがあるかもしれません。

  • 死ぬ直前まで「やりきった」と語りながらも、本当は深く感じることを避けてきた

  • 葬儀では「立派な人だった」と言われても、本人の内側には空洞感や孤独感がずっとあった。



このように、感情を凍らせたまま「他人にとっての“正解の人”」として終わった人生もあるかもしれないのです。




結論として、

わたしたちが夢見てしまいがちな「凍った成功者像」には、社会が評価しやすい枠組があるのではないでしょうか。


それは、沈黙、理性、貢献、自己犠牲...

これらは確かに讃えられるものです。



でも、その内側に「空白」や「自己喪失」があるのであれば、
”幸せ” を考える際には、それを見逃すことはできないのです。


社会で認められた理想像を目指す人が出てくるのは、自然なことだと思います。


でも、「本当にそれで幸せ?」と問えること、


それが、わたしの希望です。




凍結から目覚める新しい成熟のかたち|感じることは、新たな強さ


こうして振り返ってみると、多くの「尊敬される人たち」は感情を捧げることで、役割を全うしてきたのかもしれません。



その姿は、立派で尊く、美しいものでした。



けれど、私たちがこれから、「どう生きるか?」を考えるとき、もうそろそろ、

“役割や正しさ”ではなく、“素直さ本質”に目を向けるタイミングに来ているのかもしれません。



「それは本当に幸せ?」と問いかける存在がいることが、社会の中に新しい基準を生みだすきっかけとなるのではないでしょうか。



「感じる人生」

「満たされる人生」

「凍らせない生き方」

「心を動かしていいという肯定」



こうした価値観が広がっていくことで、「凍結成功モデル」を無意識に追いかけることから、少しずつ離れていくのかもしれません。



「かっこよさ」や「聖人」であることではなく、「素直さ」が価値になる時代が到来するように思います。



それは「役割」ではなく「本質」で繋がる時代なのです。




だからこそ、今の私たちが新たに目を向けるのは、

  • スターじゃなくて、リアルな存在

  • 無敵よりも、やさしく寄り添うことができる存在

  • 正解よりも、正直さ



そんな、等身大の姿なのではないでしょうか。



かっこわるくても、許したり、愛する心を自分に対して持つこと



そんな在り方が、頭を使い自制によって “理想” を選択するのではなく、
本当の意味で、他者を許すこと、愛することが自然と起こる精神性へと繋がっていくように思います。






さいごに



今、私たちがいる地点をこんなふうに表現できるかもしれません。


  • 「感じること」は弱さではなく、人間らしさの回復

  • 感情を抑えないことは、社会的未熟ではなく、次の成熟段階

  • 「感情凍結からの目覚め」は、個人の目覚めであると同時に、時代の目覚めである。




「昔の人は偉かった」だけではなく、今の人も、偉いのです。


ネガティブな感情に触れることは、「弱い」のではなくて「弱さに気づいていられること」は、すごいのです。



それは次なるステップとなるから。






そもそもなぜ、
「こうあるべき」や「憧れ」があるのか、

そんな根本に問いを持てる時代が来ているように感じます。



時代に合った新しいヒーロー像が生まれてもいいですし、あるいはもう、ヒーローはいらないのかもしれません。






昔の人も、今の人もどちらも尊い。


なぜなら、繋がっているから。


切り分けなんて、本当はできないように思います。



みんなそれぞれいいところがあって、

ちゃんと怒るし、泣くし、揺れるし、問いかけるし、

それぞれの中に、「生きた姿」がある。




それは決して野蛮なんかじゃなくて、
もしかしたら、それこそが生きてる仏さまなのかもしれません。








変化というのは、大きな枠組みを変えることではなく、
ひとりひとりの見え方が変わること、
そして、多角的な視野を持てるようになること、なのではないでしょうか。






冷たい氷を溶かすのは、
激しい火なんじゃなくて、
静かで、あたたかな、ひだまりなのかもしれません。






それでは、今日もいい日になりますように🍃







ありがとうございました。






巴

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   巴
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あやしくて、やさしくて、ちょっと笑えて、だけど本質に辿り着くーー。 そんな言葉を紡いでいます。 お花畑の番人で、錬金術を趣味とする。
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