”感性”の凍結とは?|前兆に気づきすぎる人が心を守るために
はじめに
この記事では、あまり知られていない「感性の凍結」についてお話ししたいと思います。
この「感性の凍結」とは、正式な心理学用語ではありません。
けれどここでは、周りの人の微細な感情や、場の空気、目に見えないエネルギーなどを自然に感じ取る繊細な感性を、意識的、または無意識的に封じてしまう心の動きを、感性の凍結や封印と呼んでみたいと思います。
この感性の鋭さについては、HSP(Highly Sensitive Person)とも重なる部分があると思いますので、HSPで悩んでいる方の参考にもなれば幸いです。
「感じすぎることの苦しさ」を知っている人にこそ、この内的な選択の背景と、その先について、お届けしたいと思います。
・周りに合わせすぎて、自分の気持ちが見えなくなってしまうと感じる方
・感受性が強く、空気や場の違和感を敏感に感じてしまう方
・感性を大切にしながらも、心穏やかに過ごしたい方
まずは、感性の凍結がどのように始まっていくのか、
その原点とも言える、子ども時代の感受の体験から見ていきましょう。
「感じること」はなぜつらい?ー感性の凍結に至るまで
感じることは生きづらさ
感受性が強い子どもほど、周囲の空気にとても敏感です。
場の緊張感や、誰かのイライラ、言葉にはならない “違和感” 。
そうした微細なエネルギーを、誰よりも早く、そして深く受け取ってしまいます。
けれど、その感覚をうまく言葉にできず、周囲に伝わらない経験を重ねるうちに、こんな思いが芽生えてくることがあります。
- 「自分が感じていることは、間違っているのかもしれない」
- 「感じる私がおかしいのかな...」
そのように思ってしまう理由は、周囲にそのような違和感を ”感じていない人” の方が多数派だったからかもしれません。
たとえば、周りの人たちが
「わかる、それっていいよね!」
と笑顔で話しているとき、本心ではそう思えない自分だけが、どこか場違いに感じてしまうーー。
そして、その場の空気に合わせて笑ってみても、心はどこか取り残されたままーー。
そんな体験を重ねるうちに、自分の感性に自信を持てなくなってしまった人も、いるのではないでしょうか。
「感じすぎる」は、本当のことを知っている
しかし、その感覚は決して間違ってはいませんでした。
むしろそれは、真実を見抜く感性の現れだったのです。
たとえば、同じ話を聞いても、自分だけがうなずけなかったとき。
その理由は、
- その言葉が、誰かを傷つけてしまう可能性に気づいていたから
- 話に込められた「優しさ」や「同情」が、どこか上辺に感じられてしまっていたから
- その場の空気が、心からのものではないと感じてしまったから
かもしれません。
また、たとえ言葉にしなかったとしても、
◉笑顔の奥にある、うすく漂うざらつき感
◉丁寧すぎる言葉の中にある、計算や距離感
◉誰もがスルーする違和感の正体
そうした微細なものを、確かに感じ取っていたとも考えられるのです。
伝わらない経験があったとしても
このような高い感受性によって体験した、「心の内」を誰かに話してみても、
「うまく伝わらなかった」という経験を持つ人もいるかもしれません。
そして、
「これ以上、自分が見えている世界について考えたり、誰かに伝えたりしても、無駄かもしれない…」
そう感じたことがある人もいるでしょう。
でももし、その違和感を少しだけ深く見つめてみたら──
新たに気づくことがあるかもしれないのです。
それは、自分が見えている世界が、みんなと少し違っていたかもしれないということ。
そのまなざしは、もっと奥行きを持っていた可能性があるのです。
下心、見せかけ、演技、空気の揺れ...
そういった目にみえないエネルギーを、無意識の内に感じ取っていたかもしれないのです。
それは“過敏”であると同時に、
とても誠実で繊細な知性の現れでもあります。
だからこそ、そのような人をただ「感じすぎる人」ではなく、
◉「本当のことがわかってしまう人」
◉「現実により近い感性を持つ人」
──そのように呼びたくなるのです。
感じるだけで苦しいということ
見えないエネルギーに気づけるということは、それだけで場の空気に “小さな波” を起こしてしまうことがあります。
たとえば、
「なんとなく、ちょっとおかしいな」
と、そう思っただけで、たとえ言葉にしなくても、その違和感が周囲に伝わってしまうことがあるのです。
それはまだ、誰の意識にも上がっていなかった、ごく微細なゆがみ。
しかし、それに気づいた人の内側で起こった反応という”波”は、まわりの誰かの心や、ゆがみを生んだ本人の内面に触れてしまうことがあります。
それはときに、何かを隠していた相手が「気づかれてしまった」と思ったときには、
反発や拒絶、恐れや怒りといったエネルギーとなって、無意識に放たれることもあるのです。
そして、その”波”さえも、感性が鋭い人は感じ取ってしまう。
このような経験を繰り返すことで、自分が感じること自体が「誰かを否定してしまうことにつながるかもしれない」
そんな思いが、ひっそりと心に根づいてしまうことがあるのです。
感性の凍結
これまでお伝えしてきたように、演技や仮面、建前の奥にある“本音の空気”が、まっすぐ入ってくる人は、ときに「自分だけ違う世界」を観ることがあります。
それはまるで、自分ひとりだけが、嘘のない世界を知ってしまったかのような、静かで深い孤独といえるかもしれません。
「もしかすると、これが本当かもしれない」
そう思える何かが見えてしまったとき。
けれど、それが誰かの仮面を脅かす可能性があると知ったとき。
本当は暴くことを望んでいないのに、結果的に「お見通し」のような形になってしまう。
「この感受は、なかったことにしたほうがいい」
それは、自分の感受したことを ”愛に繋げられなかった” という、無力感にさいなまれる瞬間なのかもしれません。
それはときに、恐怖ともいえるでしょう。
だからこそ、この「感性を捨てよう、無視しよう、なかったことにしてしまいたい」。
そう深く決意したとき、それは、少しずつ感性閉じる方向へと進んでいくのです。
「感じる」という大きすぎる力を扱いきれず、それを封印しようとする。
それはまさに、感性の凍結。
──内側から静かに、自らの感覚に蓋をするという選択なのです。
それでも閉じなかった人
けれど、こうした中でも、すべての人が感性を閉じるわけではありません。
たとえ痛みを伴っても、自分の感覚を信じて生きる人がいます。
ある意味では、「身体で感じることに疑いようがなかった」とも言えるのかもしれません。
感性が開いている人にとって、それを閉じるというのは、実のところとても難しいことです。
けれども、感じたままを受け取り続けることもまた、同じく苦しいことなのです。
そんな感じたままを受け取る人たちは、いくつかの方法を通して、この世界を生き延びようとします。
たとえば、
◉感じて受け止めたうえで、「言葉だけを信じる」と決めた人
◉人との距離を意識して選ぶ人
◉感じた違和感を「自分の思い込みかもしれない」とやりすごす人
他にも、さまざまな方法があることでしょう。
しかし、共通しているのは、「感性を手放さずに、この世界を生きていく方法」を模索してきたということです。
それは、自分を守るためであると同時に、相手を傷つけないための優しさでもあったのではないでしょうか。
気づいてしまった人々へ
感じてしまう苦しみを抱えながらも、そのまま自分の感性を信じ、生きてきた人たちがいました。
それは、傷つきやすさを抱えながらも、世界とつながることを諦めなかった人たちの姿といえるでしょう。
たとえその葛藤は誰にも気づかれなかったとしても、
在り方はまさに、勇敢そのものだと思います。
また、気づくことの重さに耐えきれず、感性を凍結させようと決意した人もいました。
それは、自分の中にある”愛”を知っていたからこそ、受け取ったものを”愛”に変換して世界に送り出せない痛みから選んだ、優しさの選択だったのではないでしょうか。
どちらにせよ、「ほんとうのこと」に出会ってしまった人たち。
その選択に、ただ敬意を込めて。
小さくても、何か力になれるように、次の章を綴っていきます。
”わかりすぎる” というギフトの扱い方
感性が鋭い人が、感性を閉じたいと思う理由の一つには、受け取った反応を、安心や居心地の良さに変換できなかったという苦しみがあったとお伝えしました。
ここからは、感性を閉じるのではなく、開いたままで、乗り越えていくための方法をお届けしたいと思います。
少し高度なお話かもしれませんが、よろしくお願いします。
感性が鋭い人の見ている世界
ここでひとつ、たとえ話をしてみます。
コップがテーブルから落ちて割れる、という出来事を、「感性が鋭い人」と「そうでない人」の見えている景色の違いで例えてみたいと思います。
➊机が揺れた
➋コップが倒れて落ちた
❸コップが割れて水が飛び散った
このようにとてもシンプルで、出来事の結果を見ているといえます。
➊机が揺れそうな前兆を、空気やエネルギーで感じる
➋水がわずかに波打つのに気づく
❸机が揺れ始める
❹コップがわずかにバウンドしだす
❺コップが机の端に近づいていく
❻コップが落ちる
❼コップが落ちている瞬間
➑床に落ちて割れて
❾水が飛び散っている
このように感性が鋭い人は、出来事の細かいひとつひとつの動きを、まるでスローモーションを見ているかのように細かく捉えています。
だから、コップが割れる前に、コップを持ち上げるなど “防ぐタイミング” が何度もあるのです。
また、簡単に防ぐこともできるでしょう。
このように起こっていることは同じでも、「どれほど気づいているか」によって見える世界は全く異なるのです。
認識のズレが生まれるとき
この「気づく速さ」は、時に大きなギフトであり、時にズレを生んでしまいます。
感性が鋭い人は、まだ何も起こってないはずの”前兆”を無意識に察知し、身構えてしまうことがあるのです。
たとえば、水面がわずかに揺れたとき、まだ見た目は何も変わっていないのに、何かが起きる予感を感じ取ることがあります。
それは、自分や周りの人が被害を受けないように、未来のトラブルに備えて動こうとする、優しさや防衛反応の現れかもしれません。
しかし、感性が鋭くない人にとっては、まだ「何も起きていない」状態。
そのため、こんなふうに思われてしまうことがあるかもしれません。
・「なんでそんなに焦ってるの?」
・「落ち着いて、大丈夫?」
この違いが、認識やコミュニケーションのズレや誤解を生んでしまうこともあるのです。
また、厄介なのは、前兆があったとしても、実際には何も起きずに終わることも多いということ。
しかし、たとえ何も起こらなかったとしても大切なのは、その時に気づいた、「水の波立ち」は紛れもなく存在したということです。
「まだ何も起こっていないけど、何かが起きそう」
――その感覚は、決して間違いではありません。
そして反対に、鋭い感性によって、誰かが悲しまずに済んだり、波風が立たないようにそっと離れることができた経験があるはずです。
これはもう、まぎれもなく、才能であり、大切にするべきギフトだといえるのではないでしょうか。
気づきのギフトを生かすために
もし、人よりも早く前兆に気づける感性を持っているなら――
その力と同じくらい大切なのが、
「揺れに反応しすぎない強さ」
です。
感性が鋭い人は、普通の人なら気づかないような、小さな波紋や違和感を、何度も感じ取ることになります。
それが心の疲れに繋がることも少なくありません。
だからこそ、こんな選択ができるようなると、心はずっと楽になります。
◉「気づいたけど、いまは反応しない」
◉「必要があれば、落ち着いて対処する」
言葉で言うのは簡単ですが、こうした視点を知っているだけでも、感性を開いたままリラックスして暮らす助けになるのではないでしょうか。
また、揺れに反応して不安を募らせたところで、何のメリットもないという理解も、反応しすぎないという在り方を選ぶ原動力となるのではないでしょうか。
さいごに
あなたがもし、敏感に前兆に気づくタイプだったとしても、まわりの人がまだ穏やかでいるのなら、それはそれで大丈夫なのかもしれません。
一人でいるときは、自分のペースで対処をすればいいだけでも、人と一緒にいる場面では、そうはいかないことも多いでしょう。
そんな時は、あなたがひとりで、その場を背負う必要はありません。
気が向いたときにだけ、そっと、静かに動けばいい。
それでちゃんと間に合うことも、たくさんあるのです。
たとえ何かが起きたとしても、見えていたあなただけが責任を負うことはありません。
そうなったときは、ただそういう流れだったのです。
どんなに多くを見通す力を持っていても、
気楽でいてもいい。
瞑想などで反応を手放す方法もありますが、このブログでお伝えした視点を通して、「気づいても、安心していられるんだ」という理解につなげることができれば、自然と感性を開いたままでも、揺らがない自分でいられるようになるのではないでしょうか。
そのような理解が少しでも伝わりましたら幸いです。


コメントはお気軽に❀ ご相談もお受けしています🕊