不在の自分を生きる|「自分がわからない」と感じる理由と仕組みについて
はじめに
突然ですが、前の記事でも触れたように、
わたしたちは、いつの間にか
「自分忘却ゲーム」に参加していると考えます。
そうして、いつしか知らず知らずのうちに、
“自分との分離” に成功し、
気づけば心に、ぽっかりと穴が空いているのです。

そして、次に始まるのが、「自分は何者か」を思い出す旅。
もし、好きなものに囲まれて、自由にのびのび過ごせたなら。
もし、心の声を何よりも大切に、受けとめてもらえたなら。
その声を手がかりに、魂のシグナルに従って、本質へと、
そして、もう一度「ほんとうの自分」に出会う旅に出られていたかもしれません。
けれど、ここでもまた、わたしたちの社会には障壁があります。
長い歴史の中でも、「自分を見つけている人」はごくわずかだと、前回お話ししました。
その背景には、
- 心の声を聞くこと
- それを信じること
- それを尊重すること
――そういった文化そのものが、
これまでの社会ではあまり育ってこなかったという現実があります。
もしかすると、
高い視点から見れば、この魂のシグナルを見失うことさえも、”地球で生きるゲーム” のオプション機能なのかもしれません。
それでも、わたしたちは今、この現実を共に生きています。
この世界で、これからも、
より安全で幸せで、もっとのびのびできるように。
”何が起こっているのか” を紐解き、
一緒に冒険していきましょう♪
・「自分がわからない」と感じる瞬間がある方
・周りに合わせすぎて、自分の気持ちが見えなくなってしまうと感じる方
・合理性や正しさに頼りすぎていると感じる方
・子どもにやさしくしたいのに、余裕がないと感じている方
それでは、
「自分を思い出せなくなる過程」
そしてその中で、
「心にどんなことが起きていくのか」
見ていきましょう。
感受性は誰にでもあるもの
感受とは、”世界を感じる力”のことです。
前提として、「感じること」は、すべての赤ちゃんに備わっていると考えられます。
なぜなら、赤ちゃんにとって
「世界を感じること」こそがすべてだから。
感受とは、単なる知覚のことではなく、
魂・心・身体を貫く “流れ” のようなもの。
生まれた瞬間から、子どもはすでに、
”主体的な存在” として世界を感じているのではないでしょうか。
たとえ言葉を話せなくても
「私はこうしたい」「イヤだ」「好き」「おもしろい!」「もっと欲しい」
そんな、ありのままの自己主張を、子どもはちゃんと持っているのです。
感受性が抑え込まれていく過程
「あれが好き」「こうしたい」「それはイヤ」
それは、思い込みやジャッジではなく、
内側から自然と湧いてくる ”心の声”です。
子どもにはまだ、その声が聞こえています。
けれどそれを、子ども時代に“壊してしまう”――。
なんてことが起こっているように思います。
なぜなら、その声に耳を傾けることを、よしとしない文化があるから。
「教育とはなにか」
今一度、見つめてみてもいいのかもしれません。
正解主義の現代教育
たとえば何か問題が起きたとき――
「どうしたの?」
「どう感じたの?」
と、心の声に寄り添ってくれた大人は、どれだけいたでしょうか?
現代社会では「感じること」よりも、
「正しいふるまい」や「成功する方法」に重きが置かれがちです。
その結果、教育の場でも、
「正しい」「間違っている」という基準が重視され、
「どう感じたか」は後回しになってしまうことがあるのです。
わたしたちが、本当に大切にすべきものは、何なのでしょうか?
「泣くな、我慢しなさい」――子どもの感情が封じられる瞬間
親や養育者が問題に直面したとき――
「子どもは何も知らない」
「だから大人が教えなければならない」
そう考えるあまり、
子どもの “心” が見えなくなってしまうことがあると思います。
たとえば、
「そんなワガママ言わないで」
「空気を読んで」
「周囲を見てみなさい、あなたは恥ずかしいよ」
「言うことを聞きなさい」
――こうした言葉は、よかれと思っていたとしても、
“押し付け”になってしまうのです。
大人が“上”に立ち、
子どもは“何も知らない存在”として、
「教育しなければならない」
という概念があるとき、
無意識のうちに、律してしまうのかもしれません。
けれどーー
本当に導くべき存在は、外にいる “誰か” ではないのです。
なぜなら、
子ども一人ひとりが、すでに “心のシグナル” を内側に持っているのだから。
感情表現が怖くなる瞬間
もしも、子ども時代に「安心して感情を感じてもいい」という体験が少なかったとしたら、
心のシグナルは少しずつ失われていきます。
例えば、
・感情を出すと怒鳴られた
・泣くと拒絶された
・親の期待と反することを言うと罰が与えられた
・感情を出すと「めんどくさい」と扱われた
・誰も共感してくれなかった
・家族が「感受すること」に向き合えず、否定・無視・嘲笑していた…
さらには、
- 「泣くな」
- 「我慢しろ」
- 「弱音を吐くな」
といった
- 感情表現そのものを禁止されるメッセージ
を繰り返し受けることで、
●「感情を出す=恥ずかしい、負け、みっともない」
という価値観が、心の奥深くに刷り込まれてしまうのです。
やがて、感情にアクセスすること自体が「ダメなこと」だと思い込まされてしまいます。
こうした体験が重なることで、
「感じること=怖いこと」と記憶に刻まれてしまうのです。
感情は危険? 無意味? ー凍結されていく心
こうした体験が繰り返されることで、脳はこのように学習します。
- 感情を感じるのは悪いこと・危険なこと
- 自分の本音を出すと愛されない
- イヤだと言うと拒絶される
- 他人の期待に応えているときだけ存在が許される
そうした状況、
つまり、「安全が保障されない」経験が続くと、
子どもはこう思うようになります。
ーー「心を閉ざす方が安全だ」
と。
感受の喪失は、”自己防衛”だったのです。
生存本能として、
「自分の心の“感じる層”にアクセスしない方が安全」
そう脳と体が学び、
やがて、感じることは「無駄」で「非合理」、という認知が奥深くまで根づいてしまうことがあるのです。
”感情の凍結” ー感受性が封じられたら
- 「自分の気持ちがわからない」
- 「どこか遠くに、自分の心があるような気がする」
そうやって思ったことはありませんか?
もしかするとそれはかつて、
”感じること”を手放さなければならなかったからかもしれません。
ここからは「感情が凍る」という心のメカニズムについて、見ていきましょう。
感情凍結とは?
幼い頃に、十分に泣いたり、怒ったりできなかった感情は、
その途中で「凍結」されてしまうことがあります。
けれど、それらの感情は消えてなくなるわけではありません。
未消化のまま、心や身体の奥に、静かにとどまり続けているのです。
そして、その凍った感情に触れると、
「今この瞬間の気持ち」だけでなく、
当時の“凍った痛み”も、まるごと一気にあふれ出してしまうことがあります。
たとえば…
- 感じ始めると、我を失ってしまいそうになる
- 強い不安やパニックに襲われてしまう
そうした体験があると、
脳や神経は「感情にふれることは危険だ」と判断し、防衛反応を起こします。
●「感じたら=傷つく」
●「感情にふれること=恐ろしいこと」
そんな二重の構造が心の中にできてしまい、
「感じる」ことそのものが危険視されてしまうのです。
それはやがて、「感じてはいけない」という無意識の信念へとつながっていきます。
このような、感受性の封印された状態を、
感情凍結と呼びます。
感情凍結は、内なるガイドとの断絶
子どもという存在は、社会的に見ると、とても弱く、
同時に、とても賢く、繊細で、敏感です。
そんな子供にとって、
大人の言うことを聞かないこと――
それは、ある子どもにとっては「命の危機」に等しい恐怖を意味するかもしれません。
言うことを聞かなくても、怒られるだけなら、まだいいのかもしれません。
けれどもし、そこで...
●ごはんを出してもらえなかったら
●無視されたり、置いていかれてしまったら
●罰を与えられてしまったら...
ーー子どもにはもう、逃げ場がないのです。
自分の感情を表現するたびに、愛やつながりが失われると感じたなら、
その子はきっと「感じない方が安全だ」と学んでしまいます。
感じることを手放すことで、自分を守ろうとする。
その結果、心の深いところにある、
感情という名の“内なるガイド”とのつながりが、少しずつ断たれていってしまう。
そんな、静かで切ない過程があるのではないでしょうか。
凍結されたのは「感受性の一部」
とはいえ、感情凍結は「すべての感受性」が止まるわけではありません。
凍結されるのは、ある特定の感情や層だけです。
感じてはいけないと学習した部分だけが、封じられているのです。
- 「私はこうしたい」
- 「イヤだ」
- 「これが好き」
というような主体性や自発性に関わる感受。
そしてその代わりに、次第に身に着けていくのが、
- 他人の期待
- 社会的な「正解」
- 親が求める理想像
――に沿った “演技人格” を身につけ、生きていくようになります。
また、感受性には方向性があります。
・横の感受性(日常的な感情・自分の欲求・人間関係)
→ 人との関係が絡むため、凍結されやすい
・縦の感受性(自然・芸術・瞑想・スピリチュアルな体験)
→ 親の期待や評価とは無関係なので、自由に感じられるまま残りやすい
そのため、一部の感情が凍結していても、
縦の感受性を通して「感受性がある」と感じられるため、
凍結されている部分に気づきにくくなることがあるのです。
しかし、凍った感情たちは、今でも静かに、迎えに来てくれる日を待ち続けています。
安心して感じてもらえるその時まで、変わらずずっとそこにいるのです。
感情凍結による「分岐」――内なるガイドを失った心の適応
「ありのままでは、自分は受け入れてもらえない」ーー
心からこうやって思ってしまったとき、
内側にある感覚や感情に対する信頼は、そっと手放されていきます。
「感じることは危険だ」という前提が、心に深く刻み込まれるのです。
それは、 “内なるガイドを失う瞬間” でもあります。
内なるガイドを失ったとき、
人は安心やつながりを得ようとして、
主にふたつの方向に“適応”していくと考えます。
どちらも、生き延びるための大切な工夫。
でもそれは同時に、
”ほんとうの自分” から、少しずつ離れていく道でもありました。
この章では、主に2つの適応パターンについて紹介していきます。
感情凍結の結果、以下の2つの分岐が起こるのではないかと考えました。
そしてそれを、
- 調和依存型
- 合理性依存型
と呼ぼうと思います。
もし、これらに当てはまったていたとしても、
それは心が、あなたを守るために選んだ優しさと知恵からだと考えられます。
そのことをまずはじめに、お伝えさせてください。
それでは、見ていきましょう。
パターン1「相手の反応=自分の反応」と思いこむ (調和依存型)
本来は、だれの中にも、自然に湧き上がる感情や欲求があるものです。
しかし、何らかの事情で感情が凍結してしまうと、
それをうまく感じ取れなくなってしまうことがあります。
その結果、自分の感情や欲求よりも、相手の顔色や期待を優先してしまう。
そして、いつの間にか「自分の本音がわからない」という状況に陥ってしまうことがあるのです。
このような適応の目的は、残念ながら「本質的な調和」ではありません。
ズレや不一致を避けること―― つまり、
「拒絶されないこと」を目指す反応なのです。
他人の気分を最優先することで、自分を保つ、という適応を、無意識の内に選びとってしまうのです。
自分が何を感じているのかさっぱり分からない。
まるで、望みなんてなくて、相手の望みが自分の望みだと、本気で感じてしまう。
”心がない”
もしくは、
“心がどこか遠くにあるように感じる”
そんな状態を指します。
まるで「自分がいない」ような感覚に包まれるのです。
外側の反応に無意識で同一化することで、安心を得ようとするこの状況は、
本来の自分の声ではなく、
“すり替えられたガイド”
に従って生きている状態なのかもしれません。
たとえば、
- 空気を読むことで“正しさ”を感じようとする
- 本音がわからない
- 自己を後回しにし、「他人=自分」と感じてしまう
- 共感しすぎて、自他の境界があいまいになる
このような心の傾向をここでは、「調和依存型(外部同一化)」と呼びたいと思います。
この「調和依存型」は、
実は感受性が豊かで、思いやりのある人ほど、
無意識で選びやすい適応のパターンだと考えられます。
そこにはきっと、大切なものを失わないための、けなげな知恵があったのではないでしょうか。
パターン2「感情を凍らせ、”合理性”に同一化」する (合理性依存型)
もうひとつの適応のかたちは、「感情そのものから距離を取る」という選択です。
過去に傷ついたり、混乱したり、どうしていいかわからなかった出来事の中で、
・「感じることは怖いもの」
・「感じても、意味がない」
そんなふうに心が学んでしまうことがあります。
すると次第に “正しさ” や “論理性” を拠りどころにして生きるようになります。
「感情に振り回されず、冷静で知的な自分でいよう。」
そう決めた姿は、たしかに「強さ」のように見えるかもしれません。
けれど内側には、ぽっかりと空いた空虚感や、
心の声が届かない “静かな孤独” が広がっていることもあります。
「感じても、どうせ傷つくだけ。」
そうして、感情は遠ざけられ、
”感じたこと” ではなく、“考えたこと”が「本心」として扱われていくのです。
- 感情を抑え込み、なかったことにする
- 「感じること」より「考えること」を優先する
- 冷静・論理的であることに安心を求めやすい
- 感情にアクセスできないまま、空虚感が残る
このような心の傾向を、ここでは「合理性依存型(自己切り離し)」と呼びたいと思います。
この合理性依存型は、責任感が強く、まじめで、やさしい人ほど、
無意識に選びやすい適応のかたちです。
感情を封じることで、自分や周りの人を守ろうとしてきた心の在り方。
それは痛みの裏にある、優しさの証なのかもしれません。
内なるガイドとの断絶
この2つの分岐は、正反対に見えて、
どちらも本質的には同じ構造をもっています。
それは――
「内なるガイド(心の声)との断絶」
です。
感じることを手放したとき、わたしたちは同時に、
自分の本当の感受性や、
心の奥底にある「本音」とのつながりも失ってしまいます。
どちらの適応パターンにも、
”自分らしく在るための羅針盤” が、見えなくなってしまうという共通点があるように感じます。
心の反応 | (調和依存型) | (合理性依存型) |
自分の声 | 周囲の反応で上書きされる | 感情を切り離して聞こえなくなる |
安心の源 | 他人の感情・空気に合わせる | 論理・思考による納得 |
苦しさ | 「自分がわからない」「他人に支配される感覚」 | 「空虚」「つながりの欠如」 |
本当の願い | 愛されたい/安心したい | 傷つきたくない/混乱したくない |
本当は… | 「私はどう感じてる?」と聞いてほしかった | 「感じるままでもいい」と言ってほしかった |
この章のまとめ
感情凍結による2つの分岐は、
”どちらか一方に完全に固定されるものではない” と思います。
人生の局面や環境によって揺れ動いたり、混在したりすることもあるのではないでしょうか。
けれど、どちらにしても共通しているのは、
“自分の内側の声”を聞いて生きるのがむずかしくなってしまったということ。
そしてもうひとつ、どちらにも共通しているのは、「感じない」ことを選んだ背景には、深い優しさや、守る力があったということ。
内なる声をもう一度取り戻していくためには、凍らせてしまった「感じる力」への優しい対応と、今の自分に合った方法で、“再びつながろう”とする意志が必要だと思います。
抑えこまれた感受性のバトン
感情を封じた大人たちの痛み
子どもの感情を受けとめられない大人がいるのは、冷たいからでも、愛がないからでもありません。
多くの場合、それはーー
大人自身の感情が、未処理のまま凍りついてしまっているからです。
「泣かないの」
「我慢しなさい」
「そんなの大したことないでしょ」
そんなふうに言われて育ってきた大人は、
きっと同じように、
・「感情を感じること=とても怖いこと」
・「泣くこと=弱いこと」
と思ってしまうのです。
そして、自分の中にある痛みに触れてしまうのが怖くて、無意識でそれを刺激されるような子どもの感情表現に、思わず反応してしまうのかもしれません。
「泣かないで」
「強くなりなさい」
そう言ってしまうのは、
本当は子どもを守るためではなく、
自分を守るためだったのかもしれません。
でも、それにもきっと、背景があることでしょう。
親もそうするしかなかった
親たちもまた、感情を抑え、心を凍らせながら、
なんとかこの世界を生き延びてきた人たちなのです。
子どもの感情を抑圧した背景には、
親自身が抱えていた、未処理の痛みがありました。
それは、耐え切れないほどの痛みだったからこそ、子どもの感情も無意識で、遠ざけてしまったのかもしれません。
癒されることのなかった未処理の痛みは、気づかれないまま、世代を超えて受け継がれます。
それは「心を感じることの否定」というかたちで、何世代にもわたって連鎖してきたのです。
感じることを奪われた世代へ
大人たちも、かつては子どもだった。
同じように、
心の奥からの内なる声を
「わがまま」
「いけません」
「わるい子」
と教えられ、
外側の声を信じるよう、繰り返し繰り返し訓練されてきた。
大人になったわたしたちは、
同じように傷をかかえ、もしかしたらうまく立ち回ることができないかもしれない。
だけど、うまくできなくてもいいから、
本当に大切なのは、
「相手の立場に立つ力」や
「人の気持ちを想像してみる力」ではないだろうかと思う。
”子どもだから”、
ではなくて、
自分事として、想像すること、感じること。
そのときにはじめて、本当 ”相手の痛み” に気付けるようになる。
どうしようもできない非力感や、やるせなさ、
いやでも従わなければならない立場、
そんな境遇に目を向けることができる。
それは頭をつかった親切さじゃない。
感じてはじめて、わかること。
子どもだから、なにもわからないんじゃない。
まだ、心とも、魂ともよくつながっているから、
痛みやすいんだ。
子どもこそ、本当に大切に、大切にしないといけない。
でも、鈍感になってしまった大人には、
もうその繊細さが見えない。
「泣くな」、 「強くなれ」
それはすなわち、
「鈍感で、魂と心との繋がりを切れ」
「感じなくなれ」
そうやって、接してしまう。
これはとてもかなしいこと。
子どもという存在には、無邪気さだけじゃない。
かなしみも詰まってるように思う。
そのかなしみは、
もう大人になった子どもたちも含め、胸の中に抱えている。
だから、わたしはこうして文章を書く
今も心を凍らせて生きているあなたへ
”感じること” を思い出せることを願って。
それはあなたに、しあわせの感受を知ってほしいから。
生きることを、存分に味わってほしいから。
あとがき
自分がだれだかわからなくなったとき、
人は、自信をなくす。
自信とは、「自分を信じること」
だけど、その「自分」が見つからなかったとしたら?
探してみても、どこにもいなかったとしたら?──
きっと人は、それでも探し続ける。
本能のように。
自分を捉えられないというのは、
とても恐ろしいこと。
”虚無” を埋めたい
自分の中心がほしい
そう願うのは、変わらぬ魂の叫びから。
”確かなものがほしい”
そう願うのは、
かつて ”確かなもの” を知っていたから。
けれど、この長い歴史のなかで、
本当 に ”自分” を見つけた人は、そう多くはないだろう。
多くの人は「見つけた気がしている」だけで
“自分を見つけた気がしている者同士”が、寄り添い、たわむれ合う。
あるいはーー
自分の中にぽっかり空いた穴に気づいて、
その穴に合う何かを探し続ける人もいる。
一生懸命、自分の力で幸せになろうとして
「探しても、なにか違うんだ」
という、とても正直な感想のもとに、
立ち止まって、苦しんだりもする。
ーそれはとても美しい姿。
「本当の自分を見つけたい」
その願いは、とても静かで、深くて、真剣だ。
空虚は、ただ叫んでいる
『あなたは、あなたを忘れているよ』
と。
だけど人は、
「誰のために」「なんのために」生きるのか、わからなくなる。
自分が誰だかわからないとき、
周りの声が ”自分”だと思い込んで、
周りの人のために生きるようになる。
「自己犠牲はやめよう」──
そんな言葉を聞くけれど、
自分が誰だかわからないうちは、
自分を傷つけてまで誰かを優先してしまうのも、
無理のないことなのかもしれない。
自己犠牲をやめられないのは、
弱さではない。
ただ、「仕組み」を知らないだけだから。
その仕組みに気づくことで、
きっと人は自由になれる。
またある人は、
自分が誰だか忘れているとき、
逆に “自我” を強くしすぎてしまう。
でもね、
コントロールの先にある
”心地よさ” というのは、
本当の自分と繋がっている証だから
「心地よいかどうか」を大切にしてもいいんだよ。
本当の自分がどんな存在で、どう感じていたのか、
「あなたがどう思うか」
それがとっても重要なことなの。
どうか、
感じることを、少しずつでいいから、
許してあげてほしい。
たとえ、過去に許されなかったとしても、
わたしはそれを知りたい。
今は思い出せなくても、
それを少しずつ探して、取り戻していくこと、
それこそが、いちばんの旅となる。
表面の感情はすぐにわかっても、
その奥にある理由は、
ちゃんと向き合わないと見えてこない。
わからなくても、
「わからないね」
と言ってみる。
それは、意味のあること。
分離した“わたし”を迎えに行く、一歩となる。
分離してしまったけど、
それでも、「わたしはわたし」。
この旅は、焦らなくていい。
心がほんの少し緩んだとき、
“わたし”がそっと戻ってきてくれるはずだから。


コメントはお気軽に❀ ご相談もお受けしています🕊