心が傍にいるときに人生は沁みわたる〈本質への道しるべ5〉
前回の記事『わたしたちは心を忘れるようにできている』で綴ったように、

心を遠くに置いてくることに成功したわたしたちは、
やっと、日常についていき、人々と同じペースで歩む力を手に入れる。
そしてある人は、
・譲ること
・感謝されること
・自分の気持ちをいったん横に置くこと
そうしたことを覚えながら、
学校に通ったり、
友達をつくったり、
クラスメイトと仲良くしたりーー
この星(地球)での生き方を、少しずつ学んでいくんだ。
やがてわたしたちは、
心をコントロールする術も身につけ、
”大人” と呼ばれるようになっていく。
そして、現代の学校や社会で当然のように推奨されている、
”目標達成のための人生”
を生きるようになる。
学校では勉強したり、
嫌なことや、面倒なことでも努力をすることを覚えたり、
そうやって、自分を律することを学んでいく。
嫌でも頑張って学校に行ったり、
授業は聞いてるふりをしたり、(笑)
本を読んでるふりもしてみた。
それなりに、たのしい瞬間もあるから、なんとか馴染んでやり過ごしたりする。
もちろんその間は、自分の心は一旦横へ置いていた。
行動の軸は、自分の”気持ち”より、
親、先生、周りの人の”安心”が基になる。
または、本当に規律を学べる人は、
自分を律して努力をして、
目標の志望校のために勉強をして、
目標の会社に入るためにいい成績を修めて、
会社でも同じく頑張り、結果を出すのかもしれない。
それはきっと ”賢い生き方” として賞賛されるのだろう。
この現代社会では、
”心” を軸にすることよりも、
「スムーズに物事が運ぶこと」
または、「計画通りに進むこと」
の方に価値が置かれがちだ。
また、「感情」よりも、
「役割・成果・ルール」のほうが重んじられることが多い。
だから、学校や社会では
心をあまり使わずとも得られる “満足感の追求” が勧められている。
それは、たとえば、
・達成感
・充実感
・褒められること
など。
そして、それらを得るために、
・努力
・情熱
・根気
を惜しまない人々が、賞賛される。
もちろんそれはすごいこと。
そのこと自体に、なんの疑いもない。
それなのに、
どうしてわたしはこんなにも、
”心” の大切さを語ろうとするのか。
それは、
心を遠くに置いたままでも得られる達成感と、
心がすぐ傍にあって得られる、溢れるような想いは、
まったく”違う質の輝き”をもっていると思うから。
一時的に満たされるものと、
自分の存在の本質を抱きしめるような体感は、全く違うものだから。
心が欲する道と、
社会的に正解とされる道が
いつも重なるとは限らない。
だからこそ、
心が遠くにあるままで、
社会的な成功
それらが積み上げられてしまうと、
ある日ふと、
「なぜ満たされないんだろう」
と、立ち止まる瞬間がやってくる。
それまでが無駄とは一切言わないし、思ったりもしない。
むしろ、そのすべてが尊い選択で、かけがえのない経験である。
だけど、もし心が遠くにありながらも、目標達成を続けているとき、
または、”成し遂げているのにどこか満たされない” とき、
わたしたちは “もっともっと幸せになれる可能性” を、内包している。
達成感・充実感・承認、
それらは ”脳で知ることができる満たされ感”。
でも、”幸せ”というのは”心”で感じるもの。
だから、それを捉えるには、感受するための心が必要で、
本当の幸せはーー
心がそこに居てくれて、はじめて味わえるもの。
心が傍にいてくれることで、
達成感はもっと深く、
自分自身の中に沁み込んで、
”生きてる”という黄金色の光に変わるんだ。
