自分って誰だっけ?|心の奥から聞こえる声とは
この世界では、「心の奥底」に耳を傾けることが、少し特別なことに思われることがあります。
だけど本当は、それは自然で、尊いことだと、わたしは信じています。
以下のような人へ、すこしでも寄り添えたらと思い、この文章を綴りました。
・心の奥底に「なにかがある」と感じている人
・心の奥底へ行くのが少しこわい人
・自分とは何者なのか、向き合いたい人
それでは、心の奥底の声とは一体なんなのか?
そして、どうしてその声は奥底へと沈んでしまったのか?
はたまた、自分って一体だれなのか?
見ていきましょう。
前の記事でも述べたように、
この世界では、わたしたちは生まれて間もなくして「心」を自動的に忘れる仕組みになっていると考えられます。

そしてもし、心が”自分そのもの”だとしたら、
やがて人は ”心を見失う” ことでことで、自分との分離に成功します。

自分との分離。
それはすなわち、「自分が誰なのか」を忘れるということ。
でもこれは、失敗ではありません。
そうなるように、設計されているもの。
それはいわば、 ”この世の掟”であり、 ”システム”と言えるのです。
もっと軽く言うならば、それはゲームのはじまり。
「自分忘却ゲーム」とでも言えるかもしれません。
そして、人々は無事 「自分って誰だっけ?」と忘れたとき、
胸の中にぽっかりと穴が空いたような感覚が生まれます。
その穴の中には空虚が漂い、
ただただ、むなしさが広がっていくーー
生きることの苦しさは、もしかしたら、
ここから来ているのかもしれません。
本来、その”穴”には「在る」はずのものがありました。
でも忘れ去られてしまった今、
そこにあるのはただの虚無。
そして、それを埋めたくなるのはとても自然なことです。

でももし、それを埋めることもせずに、
ただ虚無を感じようとしたらーー
それはとても恐ろしいことだと思います。
誰だって、真っ暗な奈落には近づきたくないし、
意味もわからないまま、底を覗き、飛び込んでみようなんて思わないはずです。
けれどその虚無は、
底の方から「こっちを見て~」と叫んでいるようにもみえる。
「堕ちちゃいなよ~」とでも言わんばかり。
ーー ”そんなこと、危ない危ない。”
子どもにとっても、そして大人にとっても、
奈落の底からの声なんて、こわいんじゃないかな。
しかも、それが自分だけに聞こえる声だったならなおさら。
『悪魔のささやき』か『誘惑』として処理するのが大抵でしょう。
また、穴の奥底というのは、
三次元の表層世界とは物理的にも距離があります。
だから、わたしたちに届く頃には、
たいていその声はとても小さく、力が及ばないほど、か細くなっているのです。
それでも、耳をすませてみると、
思いもよらない、”自分の立場” にとってはやさしい声だったりするのです。
とはいえ、
思考や外側からの “もっと頑張れ” の声は大きく聞こえるし、
たとえそれが、どれほどやさしい声であっても、
奈落の底のような場所から浮かび上がってくる事実は変わりません。
深い場所は暗い。
それは、闇だよね。
だから、”こわい” という先入観は持って当然だと思います。
でももしそこで、子ども心に、誰かがこう言ってくれたとしたらーー
「感じてごらん。
その声はあなたから湧いてくる声なんだよ。」
って。
そして、
「その声を聞かせて。」
と、言ってくれたなら。
もし、そんな風に接してくれる人が居たのなら、
「自分の奥底はこわいもの」という先入観は溶けていたのかもしれません。
だけど今の社会はまだ、そこまで網羅していない。
大人の間でさえも、
”心の声にやさしく寄り添う文化” は、まだ浸透していないから。
そして今はまだ、”表層が最も重視される世界” だから。
だからもし、これを読んでくれているあなたが、
心の奥底の声を聞いてみたいと思っているのならーー
こどもでも、おとなでも関係なく、
寄り添いたい。
そして、こんな声をかけたい。
「あなたのペースで、本当にゆっくりでいいから、その階段を降りてみる?
いやなら、行かなくてもいい。
でも、もし降りたいと思ったのなら、
どこまでも一緒に行こう。」
と。
だって、そこはこわくない。
とっても ”大切で神聖な場所” だから。
そしてーー
もしあなたが、一人で向かう冒険者なら。
ただ信じている。
そして、こんな言葉を言いたくなるでしょう。
“「think」より「feel」が好き”
と。


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