心の探求

心は”本質”への入口〈本質への道しるべ1〉

tomoe




” 目には見えないけれど、確かにある世界 ”

それは、わたしたち一人ひとりの中にある、「本質」と呼ばれるもの。



はじめに



自分の中に変わらないものがあると感じたことはありますか?



筆者は、 そんな ”本質” が、みんなそれぞれの心の中にあると信じています。



この世界では、
『すべてのものは移り変わり、変わらないものなんてないんだよ』
と伝えられてきました。


たとえば、『諸行無常』という言葉は、


”この世のすべては常に変化し、永遠に変わらないものはない”

と述べています。


しかし、心というのは深いもので、
もし、あの世とこの世のつながりの中にあるとしたら…

そのため、もし変わらない確かなものが、存在するとしたら…


なんだか、わくわくしませんか?


わくわくするということは、探求する価値があるということかもしれません。


今回の記事では「心を見つける」という第一歩を、体験していきたいと思います。



本質ってどこにあるの



「 “心” はどこにある?」

そんなふうに聞かれたら、どう答えますか?


胸のあたり?

頭の中?

それともどこにもないような...?


考えても、迷子になってしまいそうですね。


心というのは、”物理的なもの” ではなくて、”感じている現象そのもの” を指します。



それならば、感じてみましょう。


ということで、
心の反応をわかりやすくするために、ここでひとつ工夫をしてみます。


”もしここで、思いっきり飛び跳ねたら、どうなる?”


と想像してみてください。



ちょっと、びっくりしますか?





もし、「ちょっとびくっとするかも!」と感じたなら、



そう!



そこに心があるのです!



もし、それでもあまり心が動かなかったら、、


たとえば、たぬきが突然なでなでしてきたらどうでしょう?



「びくっ!」とできましたか?



どうやらそこに、心があるようです!



さまざまな心の反応がある中で、なぜ今は、
”びっくとする” を選んだのか。

それは、不快な感情ほど、”ぎざぎざ” していて違和感としてわかりやすいからです。

(たぬきはびっくりするだけで不快じゃないかもしれませんが)

また、たのしい反応ほど、軽快で”ふわっと” していて、自然で掴みずらいという特徴もあります。



この ”ぎざぎざ” したものは、固い個体のようで”違和感”として気づきやすく、

ふわっとしたものは、広がっていて包まれているという感じです。



今は心を感じてほしかったので、わかりやすい、少々荒い方を想像してもらいました。


このように、心を感じるということは、決して特別なことではありません。


びっくりした、うれしいな、こわいな、わくわくするな、


その小さな反応こそが、”心”であり、


その ”知覚” がわたしたちが ”存在しているという感覚” にもつながっているのです。



感情や感覚に目を向けてみる




わたしたちは、感情が “動いた” とき、
とっさにそれを遠ざけようとすることがあります。


なぜなら、それが居心地が悪かったり、気持ちが悪いことがあるからです。


でも、たった一度だけで構いません。


その、”心地悪さ” をそっと感じてみるのはいかがでしょうか?




その “ピリリ” とした感じや、”もやもや” した感じ、


それを味わうことはとてもエネルギーを使うことなのですが、
長いことやっているとわかることがあります。


それは、実は “その先の世界が存在している” ということです。


この、つい避けてしまう感覚には、実は “向こう側” が存在しています。


これについて詳しくは、少し先のお話しでみていくことにしましょう。


避けたくなる感情にあるヒント




「感情を味わってみる」、ということをする前に、
わたしたちは心地よくない感情を『悪者』のように感じて、避けてしまいがちです。


だから、 ”感情のその先に進む“ という概念すら持ちにくい。


しかし、もし感情をたどってその先に行ってみたいと思ったときには、
実は、心地よくない感情の方が辿りやすいのです。


なぜなら、
ふわっとした、形を捉えにくいものをたどっていくよりも、
ぎざぎざした、塊や個体のようなものをしっかり捉えて、その奥へ奥へと潜っていく方が簡単だからです。


このことから、実は感情の向こう側に行ってみたいときには、
むしろ不快な感情の方が、本質への筋道を通しやすい。


そんな思わぬギフトが隠れているのが、避けたくなるような感情のもう一つの顔なのです。



また、避けたくなるような感情に対して、本当にわたしたちが恐れるべきことは、
それを「感じてみる」ことではなくて、


こわいからと、不快な感情を感じることを避け続けて、いずれ、心がわからなくなってしまうことなのかもしれません。


なぜなら、この心の反応とは、”わたしたが存在しているという感覚” につながっているからです。



しかし、この”感情がわからなくなる” という経験をしてこそ、
感じること自体の ”ありがたみ” がわかるようになるのかもしれません。


また、この”心地わるい” という刺激さえも、
自分の心を見つけるための手段と知れば、
いつか感謝してしまうような、そんな日が来るのかもしれません。


どこからどこまでが心?



わたしたちは心が ”知覚すること” によって、感覚や感情が湧いてきます。

「知覚」とは、目に見えない何かを、身体や心を通して感じ取る力のことです。


そして、知覚したあとにはこのようなことが起こります。

ビクッとした は → 驚き に

心が痛い は  →  悲しみ に

背中がこわばった は  → 恐れ に


このように、知覚して反応が起こり、感情が湧きます。
これは、言葉になる前の感情とも言えます。
これを、生の感情と呼んでみましょう。

そして、さらに、この生の感情に思考が加わることで、「意味づけられた感情」となります。


たとえばこんな感じです。


驚き を 頭で考えて  →  不安 へ

悲しみ  が 何があったの?と考えて →  さみしい出来事だったな 

恐れ を なんでだろう?と考えて  →  拒絶されたのかもしれないな と感じる。


これらは、生の感情に思考による「意味づけ」や、「言語化」が起こった状態と言えます。


このように、生の感情に思考が加わることで、

“意味付けられた感情”へと変わっていくのです。



これは、感情と思考が同時に動いている状態といえます。


つまり、心は「知覚」→「思考」への橋渡しであり、中間地点でもあるといえるのです。


心は、本質と世界をつなぐ橋

表層 思考(頭の中でつくった物語・判断)
    ↑
  意味づけられた感情(思考が重なったもの)
    ↑
深層 感情(純粋な知覚)


この流れの中で、「心」は一番根っこにある「感じている状態=知覚」にもつながっています。

そして、それが言語化されたり意味づけされた瞬間に、思考へと入っていく。

そうして感情が「思考に包まれる・覆われる」、そんな状態になるのです。


たとえば、
「怒ったと思ったけど、実は悲しかった」そんな、思考と感情のグラデーションの中にあるのが心と言えるのです。


そしてこの心、感情を捉え、中心へと進んでいくことで、
思考の先にある、自身の“本質”に触れることもできるようになるのです。

まとめ

「ただ感じる」知覚

「内側から湧き上がる」感情(直観・愛・恐れ)

「意味づけられた」思考的な感情

心とはそれらすべてを受けとめ、響き合わせる場所だといえるのではないでしょうか。

それは、思考の始まりでもあり、感情の奥でもあり、ただ湧いてくる ”何か” にも触れている場所。

それはすなわち、心は本質への入り口にも通じているのです。


身体が痛みを感じるように、
心には“真実や嘘” “安心や違和感”を感じ取る力が隠されているのです。

おわりに



心は、”目に見えないけど確かに在る、わたし”という存在が
この世界に“触れるための”パイプ”となる役割を担っているといえるのではないでしょうか?

心は本質へと繋がっている。

見えない世界なので、なかなかお伝えするのも難しいのですが、
少しでも、心は ”変わらない何か”への入口である、
そんな理解の助けとなりましたら、幸いです。


メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Profile
   華苗
華苗
-kanae-
あやしくて、やさしくて、ちょっと笑えて、だけど本質に辿り着くーー。 そんな言葉を紡いでいます。 お花畑の番人で、錬金術を趣味とする。
記事URLをコピーしました